宇喜多秀家潜居跡

案内柱の方の階段を上ると宇喜多屋敷跡の石碑が、右階段の方には付添の家来のものと思われる石碑があります。

牛根辺田、上ノ村の平野原の山手の小高いところにある。慶長五年(1600)九月関ヶ原の戦で敗れた秀吉の一族であった宇喜多中納言秀家は、秀吉の信望も厚かったが、徳川方の追及も厳しかったので姿を変えて翌六年六月(1601)島津を頼って山川港に着いた。

石田三成方についた島津家も領土保全弁明に大童な時、重ねて宇喜多秀家の潜居まで加わり、島津家にとっても有り難迷惑であったが、戦の責任者たる島津義弘はよく秀家を保護した。

秀家は最初牛根の浮津に着いたとも言われているが、牛根辺田の平野原屋敷に居を構えてひたすら謹慎し、毎日その罪のとけんことを七合(約三キロ)離れた居世神社に願をかけた。

島津義弘は伊勢貞成、相良長辰をして迎えさせた。落ちぶれていても中納言の位階であった秀家、島津家は表面保護の名目で牛根辺田の武家に命じ、屋敷の入り口に住居を構えさせて、見張り番と保護に当たらせた。また全国より旧家来が後を慕って集まってきた。一方島津家久(義弘の子)は京都伏見にあって家康に詫びたが赦されなかった。

故に義弘はさらに山口尚友、本田正信をして罪の軽減を願い出た。その結果家康は「これは島津の面目をつぶさぬ為に赦す」と言ったという。

その後秀家は八丈島に流され、八十余歳にて没したという。今も同地に遺跡がのこっている。秀家の屋敷は山下の小高いところで、花香は平野家がとっている。また、地形を考えるに攻撃されたときのために、鹿倉峠に連なり、追っ手が探しても見つけるために非常に困難な地形になっている。