太崎観音

牛根辺田(上ノ村)の国道220号線沿いに、松に囲まれた景色のよい岬に観音があり太崎観音と呼ばれている。

慶長年間(1596)牛根地頭は百引(輝北町)の平山古川守半助および半兵衛であった。古川守は、牛根地頭時代に愛松山古川寺を観音崎の山手、寺の原に建てたがその時百引岳野の観音平から観音をこの地に奉還したと伝えられている。

古川守はその後、都城主伊集院幸侃の誅伏・幸侃の子忠実の反乱(庄内の役)に加担して討死したが、観音は太崎観音(てざき観音とも言う)として、村人に信仰されてきた。

この観音崎は、牛根地区中最も景色のよいところで、カルデラ時代の溶岩が突出し、磯馴の松とともに桜島を一望にして眺望絶景の地である。
旧暦六月十七日にはこの観音崎で祭りがあり、出店も立ちならび、村中の善男善女がお参りして終夜にぎわっている。

日露戦争時の招魂碑と記念碑

明治二十七年の日清戦争に参加し戦死した人は記碑がないが、明治三十七年に戦死した人三名、明治三十八年に四名の戦死者。明治三十七年の日露戦争に百七十四名の人が従軍している。

この記念碑は、最初太崎観音の山手の道路側にあったが、道路拡張のため観音と同じ嶽の上に移した。その後大波に浚われて倒壊したのであるが、昭和四十七年二川の篤志家、深港清氏の奉仕によりもとの座に復元したのである。