笠仏・六地蔵塔

宮崎小路の川沿いに山手170mほど行ったところにある。ここは入船城の前面、堀之内の外、馬乗り馬場の西に当たるが今は畑地になり、果樹の間に転々と古墓がでている。

天正2年(1574)肝付氏は咲花平早崎及び入船城で島津氏と激戦と交えたがその時の戦死者は数千に及び、戦死者の首を物干し竿に吊したところ八百八竿あったという。

勿論伝説で八百八竿は数多い装飾の言葉に過ぎないがその数が如何に多かったかをうかがい知ることができる。それを一緒に葬ったところが笠仏首塚(笠仏はそこの地名)で、旧藩時代塚のあたりに大樟(くす)があり、風で倒れたがその後を畑にしたら古骨が続々でたと三国名勝図絵に記載されている。

塚の中には、無縁の敵味方の霊を弔う六地蔵もある。この近くに善戦よく籠城して、島津方より和睦を申し込ませて城を明け渡した勇将安楽備前守兼寛の墓及び内室の墓もある。

安永八年(1779)桜島が大爆発したとき、降灰と大雨により洪水が起こりその塚も埋もれてしまった。

畑を耕すと人骨が出て来るので当時の牛根の役人の広田藤兵ェ、山口吉左ェ門が塚の跡に六地蔵塔を建てて戦死者の供養をしたという。

近年その塔も埋まって上部だけが見えていたが、西之原金助氏や他の老人会員の奉仕により復元された。塔の柱の部分に塔が建てられた由来が刻まれている。文政二年(1818)十月八日とある。