入船城跡

入船城の歴史については「入船城攻防」の所に案内しましたのでご覧下さい。

別名松崎城、牛根城とも言う。この築城の年代は不詳、源氏に敗れた平家がこの地を相して山砦をもうけ源氏方の探索に備えたとの説もある。
歴応の頃(南北朝時代で北朝年号を歴応という。1338~1341)牛根兵衛五郎道綱が居城、応永十九年(1413)築城の名人伊地知季豊が造った池袋氏の請にこの城を譲っている。

以後百余年、池袋氏の居城であったが、国分の本田薫親の所有となり、約十年経て天文二十年(1551)に肝付兼継に譲った。兼続は島津氏に対する要衝の地を得たことを大変喜んで、一族の中で知勇兼備の名将といわれた安楽備前守兼寛をして守らせた。

永禄四年(1561)肝付兼続は称寝、伊地知氏と連合して島津氏に背き約十三年間争った。天正二年一月肝付・伊地知連合軍はこの城を最後の拠点として激しく抵抗した。この間この城の占める役割は大きく最後まで島津方を苦しめたが、激しい攻防戦の末遂に降伏した。

牛根城が落ちると義久は伊集院魯笑斉久道を牛根地頭に任じて治政に当たらせた。久道は第一に島津家の尊崇篤い稲荷神社を麓の下川内に建立し、更に肝付方に加担した地元の武士の士分を停止し武士集落を分散した。天正八年頃より鎌田尾張の守政年(寛栖)が地頭となり善政を布いた。

即ち士分停止になっていた地元の七家、長濱、児玉、村山、隈元、中野、二川の各家を士分に復活させ、更に二川に喜翁院(禅宗)を創建して自家の宗廊とし住民に仏教をすすめた。

慶長年間は小河尾張守一族、小河半兵衛、半助地頭となる。この時代百引より観音を太崎に移して祀る。藩政時代になると直轄領として幕末まで多くの地頭が任命された。