関ヶ原の戦いの後

関ヶ原の戦いと牛根  何の関係が?と思われるかと思いますが、この地には思わぬところで関係ができてしまったのです。

歴史の教科書では関ヶ原の戦いはわずか半日で大勢が決し、石田三成は処刑され、家康が征夷大将軍になり江戸時代が幕を開けたとなっています。

しかし・・・・

歴史の裏舞台では、西方の大将、備前、備中、美作、播磨国五十七万四千石領主、岡山城主権中納言宇喜多秀家にとっての苦難の始まりだったのです。
まずは秀家の関ヶ原後のことについて・・・・

1600年9月15日

豊臣秀頼方の西軍と徳川家康方の東軍による天下分け目の戦いに西軍豊臣方の1将として1万7千の兵を率いて出陣。敗れる。(28才)
秀家公主従は関ヶ原より近江国、伊吹山に逃れ、山中深く分け入り不破越えの山路伝いに美濃国(岐阜県)池田群粕川谷の奥、中山の里へ落ち行く。
河合、小神、上香六を経て逃げ延び河合村の辻堂にて夜を明かす。

9月17日

粕川の山手、滝村の奥にて、白樫村の庄屋、矢野五右衛門に出会う。矢野氏宅に案内され、後ろの山の岩穴に囲い籠め、懇ろに介抱さる。
矢野氏のもとに42日間潜匿。

10月29日

白樫村を出て深夜粕川を渡り赤坂の宿に出、江州鳥居本に泊まる。

11月2日

京都伏見、京島着。船にて大阪備前屋敷に入る。豪姫との再会なる。(秀家の正室、前田利家の娘で秀吉の養女となった。)

1601年 慶長6年5月
薩摩国、島津を頼ることとし、黒田勘十郎他を供として、大阪より小舟にて、海路薩摩に落つ。(29才)

6月初

海路、薩摩国山川港着。
薩摩藩主島津義弘は伊勢貞他相良長辰をして応対、厚遇、鄭重に出迎えさせる。

薩摩藩では、徳川家康方に対する配慮から宇喜多秀家主従を、薩摩の本拠地鹿児島鶴丸城へは迎えず(上陸させず)牛根の平野家に命じ、平野屋敷に置くことにした。
山川港より直接、海路牛根へ案内、平野屋敷にかくまうことになる。

この時より秀家公は改名して休復と名乗る。
平野家では領有していた平野原の山手にある本家、本宅(平野家上屋敷)を秀家公主従の住まいに供した。

秀家公が住まれてから平野家では上屋敷の中の宇喜多屋敷(ウッジャシキ)と呼んでいる。平野家では、家人は下屋敷の別宅(隠居家の形をとった、海路、外的の見張りを兼ねる現住地)へ移った。

その間秀家公の旧臣達、遠路麾下に集まり来る者数十名、多い時は百数十名もあった。
平野屋敷潜居滞在は足かけ3年、満2年3ヶ月に及ぶ。

1603年 慶長8年正月

薩摩藩主島津家久、忠恒は徳川家康に秀家公の助命を嘆願して容れられる。

慶長8年8月

秀家公、薩摩国より京都伏見へ護送さる。
後、直ちに駿河国久能へ写される。久能山に2年間幽閉さる。

1606年 慶長11年

従三位、豊前、美作太守、大老、権中納言の位を剥奪さる。(34才)
俗名 八郎となる。

慶長11年4月

伊豆七島の八丈島へ遠流。
伊豆下田港より、主従13人と共に船出。八丈島大賀郷村東里銀木犀に居住。
その後 久福と号す。

1655年 明暦元年11月20日 歿 (84才)

※秀家公について

秀家は五十七万四千石の岡山城主宇喜多直家の長子、約四百二十年前の天正十年父没後十歳で同城主に。豊臣秀吉の寵を受け元服の時秀吉の秀の一字が与えられ秀家と改名。十七歳の時、加賀百万石金澤城主前田利家の三女豪姫と結婚。その後、秀吉朝鮮出兵十六万人の将として軍功を立て権中納言に任ぜられるなど、徳川、上杉、前田、毛利らと並ぶ秀吉五大老の一人として列挙。慶長五年豊臣秀頼方の西軍と徳川家康方の東軍による天下分け目の関ヶ原戦で西軍豊臣方の一将として一万七千の兵を率いて出陣したが敗退。岐阜粕川白樫村の庄屋矢野五右衛門のもとに四十二日間潜匿。その後一時は豪姫の居る大阪備前屋敷に戻るが徳川の目が厳しく慶長六年五月、島津を頼りに薩摩の地に落ちた。しかし島津は家康方に対する気配りから本拠地鶴丸城へは迎えず牛根の平野家に身を置くよう命じた。山川港から直接、桜島瀬戸の海路で案内され秀家は平野屋敷に満二年三ヶ月潜居滞在、牛根に来てからは世間を憚り休復と名を変えていた。          (南九州新聞平成13年7月19日号より)