秀家公と平野家

 「権中納言宇喜多秀家公に関する平野家の語り伝え」 として、以下のようなことが伝えられています。これは平野家第35代 平野彦太郎氏の談(口伝)によるものです。

  •  公は容姿端麗、武人らしい凛々しい中にも優しい心根と部下を思いやる心の深い偉大な人物であられた。
  • 貴公子でヨカニセ(美男子)であられた。
  • 秀家公が大阪より船で西下、薩摩国山川港へ到着、薩摩藩主島津義弘公は都合上島津城下鹿児島へは上陸させず、そのまま海路直接瀬戸海峡(桜島と大隅半島の間にあり幅約200m~400mあり、大型艦船が通行していた。大正3年(1914)1月12日の桜島の大爆発噴火により大隅半島と陸続きとなっている。桜島口の現在地)を通って牛根へ来られた。
  • 藩主島津公より平野家で匿うよう命ぜられた。
  • 平野家では公・主従を本宅(上屋敷)に居住してもらったが、従者多勢(数十名 多いときは百数十名)のため、すぐさま増築普請けをして差し上げた。平野家では公の居住された屋敷を上屋敷(ウエンヤシキ)の中の「宇喜多屋敷(ウッジャシキ)」という。現在もそのように呼んでいる。
  • 平野家の家人は元々隠居所があった「下屋敷(シタンヤシキ)」に居所を移した。以後ずっと現在地に居住している。
  • 公は物静かに読み物や書き物をしておられることが多く、平野家に伝わる仏典や古文書類を読んだりされ、学のあられるのに敬服・感服していた。
  • 公は毎日欠かすことなく屋敷から三十余町(約7合、約3km)の所にある居世神社に日参され、静かな生活を送られた。
  • 居世神社に日参の途中「宇喜多屋敷」の横手約100mの所にある平野家の「氏神」と「宇喜多屋敷」の下手にある「七人塚」に必ず参詣された。
  • 食料、衣料等の調達、全ての世話を平野家でして差し上げた。
  • 公が平野家を去られる際、公の書かれた物、日常使用された品々は平野家に残された。
  • 平野家では公の残された品々を大事に保存し、平野家の家宝として大切に保管していた。
  • 公が去られる時、毎日参詣されていた居世神社に刀剣類と皿等を寄進された。
  • 曽祖父(三十三代)の代まで、平野家の者は勿論、土地の者にも秀家公がこの知を去られた後、八丈島へ遠流の身となられたことは知らされていなかったらしい。
      それ故公がこの地、平野屋敷を去られた後、どういう運命をたどられたのか、はっきり分かっていなかったのでは。
      いずれかの地で没されたのだろう。
      その御霊を弔い慰めると共に、平野家に滞在されたことを記念するため、平野家では碑を建てて祀っている。
  • 秀家公の石塔の横に公の付き人、家来の方の石塔二基がある。これは二方がここで没されたのではなかろうか。

 このように宇喜多秀家公に対するもてなしを行ってきた平野家ですが、当家には更に次のような事が伝わっているのです。

平野家のはじまり

平野家の祖・・・・・・・平氏
文治元年(1185)3月 源氏方との壇ノ浦の合戦に敗れ、平氏滅亡。
平氏の落人として船にて西下。牛根の地に潜居土着。現在地を両有す。
現在の平野家当主は第36代にあたられる平野利孝さん(垂水市教育委員長)です。

平野屋敷
士族、平野氏の領有する土地にて、地形は山下にやや高く、後方は大樹、数樹あり、泉湧出す。後方に続く全山平野領にて、鹿倉峠(鵃岳(ビシャゴダケ)標高885m)に続く。前は陸田で平野家が領有し、その一帯を平野原(バイ)と称す。

他でもふれたように、昭和2年の火災により、平野家の全ての物が焼き尽くされ、物的な物は残されていませんが、かつての住居跡などが石碑となって残されています。

また、文献には次のように紹介されています。

源氏方による平氏追討、平氏一族、平氏残党の探索は厳しく、追討の手が当地へも伸び、源氏方の武士七人(山伏とも山伏に扮した武士ともいわれる)が来た。この追討、探索の者達七人を武道の達人腕利きといわれた平野家の一人が夜陰に乗じ全員を討ち果たした。

後、平野家で、この七人の人たちを手厚く葬り、その霊を慰めるため、塚を建てて祀った。(七人塚) その後八百余年間絶えず平野家で代々管理し、祭主として神事にて祭を執り行っている。

およそ八百年前、平氏の落人としてこの地で姓を変え、追っ手から逃れ、島津(祖先は都城源氏方といわれる)からつぶされることなく、また、かつてこの地までたどり着いた水軍を生きるために活用し、約四百年経って今度は同じく落ち延びてきた武将を手厚くもてなし、その歴史を受け継いできていらっしゃるのです。