松ヶ崎の状況

 以下の記録は、当時牛根麓住民である榎木十吉氏の回想によるものです。

 第一節 爆発の前日

大正三年一月十一日には、午前八時頃地震があって、その後も十数回地震を感じたが、さほど大きく激しいものではなかった。
当時は、今日のように正確な情報を速く知る施設もなかったので、民間情報がデマまじりに麓部落にも流れてきた。

いわく、桜島の有村温泉では、最近温泉のふきあげがはげしくなってきたとか、井戸水があつくなってきたとか、いや屋久島方面に異変が起るとかの情報がきかれた。
その時点までは、麓部落で桜島大爆発の前兆らしきものは、余り感じていなかった。

ところが、午前八時過ぎになって、瀬戸・黒神・浦前の住民を乗せた舟(自家用の釣舟)が何十隻となく、わが麓部落の海岸へ避難のため集結してきた。一隻の舟に家族四・五人と食糧・衣類等を積み込み、中には犬猫まで同乗していた。

麓海岸と浜辺は、これらの避難民と舟でたちまち立錐の余地もなくみちあふれた。
沖には、辺田・中浜・二川方面めざして避難していく舟も多かった。

この突然の状況を目にした麓住民は、さては桜島に異変が起きたのではと驚きつゝ、これらの避難民に対応して、いろいろな情報に接した。黒神では、二・三日前から地震が大小たえまなく夕方ランプに火をつけようとしてもランプがゆれてつけられないとか。

戸・障子が一晩中がたがた音をたててねむれないとか、又庭先の土砂が崩れおちたり、蛇や蛙がはい出したりするとか、桜島が大爆発を起すのではと考えると、こわくて島におれないとの話をきかされた。

九時頃から、麓部落では、青年団が中心となって、桜島からの何百名かの避難民の救援活動を始めた。
わが麓青年団は、団長以下四十名を手わけして、まず宿泊所として、一二〇戸の各家庭に四・五名ずつ宿泊を依頼し、学舎(現在の部落公民館)にも数十名を割り当て、更に浜辺に舟を引きあげ、舟に宿泊する避難民も多かった。

次に食糧食事の世話については、嶽野清次郎氏宅の焼酎づくり用の大きな釜を借り、からいもを各戸から寄贈していただき、一回に十貫(三十七キログラム)入り十俵位づつをむして、青年団員が、タンゴ(当時水を運搬する道具)に入れて天びん用の棒でかつぎ、これを避難民全員へ配給した。

昼食の炊き出しを終えて、息つく間もなく夕食の炊き出しの準備に追われ、麓部落民は、青年団を中心に各家庭が協力して桜島避難民の救援に活躍した。
今まで、麓部落の住民は、わが身の避難の事など感じていなかったが、正確な情報が直接聞けるようになってきた。

夕方近くになって、瀬戸部落に砂糖づくりの仕事に行っていた港崎覚兵衛氏が帰ってきて、有村・脇部落ては、温泉の井戸は増水の上に温度が非常に高くなって沸騰している処が多く、住民は何か異変が起るのではと、本格的に避難を始めたとのことであった。

当時は、県内外のもろもろの情報を知る機関として新聞の発行はあったが、運送の関係で郵便による配達のため、二日後か三日後でなければ、閲覧できない時代であった。
わが牛根村でも、牛根郵便局が二川に開局され、郵便の集配・貯金・為替・小包等の業務を取り扱っていたが、徒歩による配達であった。

大正3年の櫻島大噴火については、当時桜島にお住まいだった方々の被災や避難の状況等について、色々な本が出版され、詳しい記録が残されていますが、桜島の裏、対岸の牛根地区についての記録は、桜島大正大爆発に関する本では付随的に記載されているに過ぎません。

もちろん、当時桜島にお住まいだった方々の悲惨な状況はいうまでもありませんが、この牛根、ことに麓・辺田の降灰による被災状況も悲惨を極め、この地域一帯が壊滅的な被害を受けたのです。

爆発の前日頃から麓・辺田地区に避難されていた桜島住民の方々(瀬戸、黒神の方々)も、麓・辺田の方々と同様、桜島から遠ざかる方へ、即ち、百引、垂水、串良、大崎方面へと避難せざるを得ない状況だったのです。(現在の国道220号線のような海沿いで海潟に出る道はなかったので、山越えで行かざるを得なかったのです。)

この当時の松ヶ崎の方々には記録を残すというような余裕などなく、記憶の中に残っていたものを後で書き記すというような方法でしかこの大爆発についての記録を残すことしかできませんでした。しかし、その記録は90年以上経った今でも鮮烈な感動として読む者の胸に迫るものがあります。

大正3年
桜島大噴火