居世神社

下のような鳥居をくぐり階段を上ると写真の社があります。

周りを木々が取り囲み、静かなたたずまいです。ここもかつて大正三年桜島の降灰が積もり、今も墓石等が埋まったままになっています。この神社は古く、また垂水の中でも格式が高く上世家の方々が代々守ってきました。

昭和48年神社改築が行われ現在の形になりました。

ここの建立がいつなのかはっきりしませんが、前述のように、その起こりは欽明天皇の説と、安徳天皇の説とがあるようです。永井氏は後説を取っていらっしゃいます。

神社旧記に対する考察

落日後の平家には旧記に対する詳細な考証と論評がありますが、此処ではその項目のみを述べます。

  1. 上古年代不詳十二月二十九日の夜とあり。
  2. 欽明天皇の第一皇子とあり。
  3. 空船にて七、八歳の童子一人泣いていられた。
  4. ・農夫は直に案内して表の床の間に招じ入れた。
    ・妻にも王子を会わせなかった。
    ・供御はすべて老爺が吟味して差し上げた。更に民間伝説も総合して考察すると
    ・鍋に入ったものを召し上らない。
    ・婆さん(上世の祖父の妻)が戸の節穴より覗いたところ、光り耀いた皇子様で、目がその節穴に吸い寄せられて離れない為、爺さん驚いて皇子にお詫び申したら離れたと。
    ・皇子を伴い、朝早く目白(ハナシ)を山に取りに案内し、日暮れて暗路を帰って来るのを常とした。
    ・人に見られるのを極度に嫌い、又用心した、その為に居世神部落の山の嶺に、法師の立つ手と言う見張りの場所が、今でも残っている。
    ・更に此の古文書に、皇子潜居と言う文句がある、何故に七、八歳の童子が、戦々恐々として隠れねばならぬのか、此の農夫が躬を以って妻にも知らせず守護申し上げねばならぬのか、此処に深い疑問と謎が伏在する。

皇子漂着の検討

本書は研究著述の書でなく市史であるから、其の論評は略する事とし、要領のみを記述すると、第一神社古記に、上古十二月二十九日の夜、皇子が漂着したとある、十二月二十九日と言えば、暦法が伝っている時代と考えねばならぬ。

第二に第二十九代欽明天皇(五三九~五七一)の皇子と述べている。欽明時代には暦法は未だ伝っていない、あったとしても民間にはない。

第三に欽明の第一の皇子であるという説。勿論代明の第一皇子は箭球皇子(やだたるのみこ)として十三歳で薨じて居られるが、雪中を裸足で走られた位で流し奉る筈もないし、伝役(おもり役)もいた筈であるのについていない。又大和川を降られて、大阪湾より太平洋に出でられることは全然考えられない。

第四に夜が入ってから漂着、然かも独りであること。

第五に上世の老人が疑もせず、直に奉じて自分の家の床の間に招じ入れ、日常の供御、万般妻にも見せず奉仕したこと。

第六に皇子を隠し奉る様に朝早く山へ目白(ハナシ)を取りに案内し、夜暗になってから帰って来たこと。

第七に此の御子は鍋に入った物に絶対に召上らなかった。

第八に七人の山伏が尋ねて来た、上世の老人はそれは牛根ぢゃござるまい、敷根でこざろうと追い返し、直に皇子を人船城大手門の方へ逃げしめた。

第九此の山伏の起原は、いつ頃から国々を巡錫したか、是は真言密教と関係があり盛になったのは、平安末期、鎌倉の初期である。

第十皇子は此の逃げる際、麻の切り株で怪我されて、破傷風で十三歳にて薨せられた。は荼毘に附したりとある。此の荼毘は鎌倉時代の初期に盛んに行なわれた、鴨長
明の方丈記などにも出ている。

第十一火葬した所が小烏神社で、葬った所が陵である。此の牛根部落の者はみささきと言って、清音で言うが実はみささぎで陵のことである。

陵の定義は、天皇・皇后の御陵墓と言うと延喜式に明確に規定されている。大昔日本武尊の白鳥の陵や、聖徳太子の斑鳩(いかるが)の陵や、宮子姫の陵があったが、それは只二、三の例外のみで、お墓とは申しても陵とは絶対に言わない。