安徳天皇と陵

前述の垂水史上巻には以下のように書かれています。

暦法より考え、山伏巡錫から察し、更に火葬、荼毘然かも幼少であり乍ら、戦々恐々として人目を避け、御葬り申し上けた場所を墓と言わす陵と申す時代、名称、伝説、行動、潜居等より考察する時、第八十一代安徳天皇と断定し奉ることは必然てあり明白であり、拙著落日後の平家に評論し、全国斯界の注目を蒐めた。そして是に反論する者が一人もなかった。

其後更に十幾年調査を重ねたが、寸分の疑義を挿む余地がない。即ち著書出版前二十三年、其後十年、三十三年間研究の成果である。

要するに十三歳で崩ぜられたことも疑問があり、牛根と高山の肝付氏を頼って、鹿倉峠より高隈山麓、七つ谷、長谷川に沿うて高隈、串良、高山と往復されたことは事実で其の道順に七ツ谷、柏木、立山、権現、古園(フッゾン)、生栗栖、観音ガマ、道暮れん谷等平家の史蹟を証する所が多い。

 法師の立つ手
 居世神部落の東方の屋根、皇子御守護の為に、法師等が交代に見張りをしていた所、上世の人々は代々正月に御幣を捧げて祀っている。

 小鳥神社
 皇子荼毘の所、鹿児島県下に四ヵ所加治木、桜島、西薩方面にあるが無関係である。大姶良、池田古文書によると此処が陵であると記述している。

 ス ナ 塚
 スナウ塚の意で、小納言及弁官をスナウの官といった訛りから、其の墓をスナ塚と言ったらしい。

 上世の家
 此の家は代々塩焚の家で、此の上世から下世も出た。シカマと言うは播州飾磨をも言い、昔の塩焚住人がいた名残りである。
 皇子を案内した農夫はぢいさんと言っているが、案外若かったかもしれぬ。上世の家の表の間は、今も大事にして余人を入れない言い伝えもある。又お正月には七つの品を揃えて、お着崎の小烏神社に白酒(あま酒)と共に供えることは今も絶たない。
 要するに県下広しと雖も、陵の地名はどこにもなく、あっても明治初年に勅令でさだめられた吾平山陵、高屋山陵、可愛山陵があるのみで、是も神代の三山陵で別である。
 硫黄島の陵も、陵と言わずお墓と言い、海路源氏の目を偸んで、此の入船城の地に、往があったことは想像に難くない。而も後ろは深山、前は海、逃けるに易く、探すに困難な場所である。
 麓の宮崎小路の奥に陵(みささぎ)という場所があります。ここには安徳天皇が葬られていると言われています。
 安徳天皇とはどういう人かというと、下の家系図をご覧下さい。

ここは古くから「みささぎ」と呼ばれ土地の人々から厚く信仰されているところです。文化年間(1804~17)島津重豪公もここに参拝され、献燈玉垣を奉献、また有志にも献燈をすすめられ今もそれが残っています。

昔はここを御前といい御前崎、おぜん原等の地名があります。寿永4年(1185)3月24日平家は源氏に追われ安徳天皇は赤間が関壇ノ浦で二位尼按察局(時子)にいだかれてご入水なさった。

また、伝説によると屋島を落ち延びた平家の人々は大君をお守りし、周防大島から日向灘を南下され硫黄島を経て内地にご潜入、若御子は牛根の居世神に漂着された。その後7人の山伏の追跡のため足の怪我でわずか十三歳でおかくれになりここに御葬り申し上げてあると。
【垂水市教育委員会】

平安時代末期、平清盛が全盛の時、次女の徳子(後の建礼門院)が高倉天皇に嫁ぎ、生まれたのが安徳天皇です。
しかし、1185年(寿永四年)壇ノ浦の戦で祖母時子に抱かれ、入水された。時子は遺体となって発見されたが、安徳天皇の行方は不明となっています。
母建礼門院は源氏に救われて京都に還り、剃髪して真如覚と号し、洛北大原寂光院に住んだと伝えられています。

みささぎの由来
上述のように島津重豪公が献燈された石塔と、地元の有志が献灯したものが残されています。