早崎・咲花平

歴史の所でも取りあげましたが、ここの台地からの眺めは絶景で、錦江湾を一望できるばかりでなく、遠くは霧島連山や開聞岳まで見渡せるところです。

第二次世界大戦当時はサツマイモ畑であったということですが、今は木が生い茂り、このままでは絶景を楽しむことはできないようです。

大正の大爆発以前は海岸沿いの道はなくもっぱらこの早崎の後の山道を越えて垂水や百引方面へ行っていたということです。

こちらは、陵の横の山道の途中から見た早崎の山です。昔は牛馬に木材を引かせておろしたということです。

昔から牛根の松や杉は牛根松、牛根杉といい鹿児島では貴重な建築材や船造りの板などであったということです。

今は、登る人もなく、道がどのようになっているのかすら定かではありません。

歴史上の出来事

早崎の山は旧牛根村に属し標高325m、牛根と垂水を境にして北と南は急崖でその中腹に小浜の塁があり、要害堅固な地である。
永禄4年(1561)肝付兼続は称寝重長・伊地知重興と連合して島津貴久にそむいた。それより天正2年(1574)まで両者の間に激しい戦が行われた。

この地は2度戦場となっている。この要害の地に肝属方は早崎に支族の河南安芸守、小浜に伊地知の支族伊地知美作守とその弟又八郎重貞を大将として守らせていた。

元亀3年(1572)9月26日貴久の後をついだ義久は弟歳久に命じてここを攻めさせた。歳久はその夜闇を利用して瀬戸海峡を渡り左右2隊に分かれ、左手は断崖をよじ登り逢背越に出て敵の退路を塞ぎ、、右手は小岳、大谷の辺より上って翌27日未明に頂上に達し直ちに敵陣を襲った。

思いがけない急襲にあわてふためいてどうすることもできず、退路も塞がれているので逃げ場を失い北側の断崖から飛び降りた。その光景があたかも花が散るように見えたので後世ここを散花平又は咲花平とも言い、それがなまってサッカビラと唱えた。

河南安芸の守は唐傘を持って飛び降りたと言われているが、実はようやく脱出して牛根城に入った。

小浜は眼下にあるので歳久は早崎を弟の家久に守らせ、まっしぐらに駆け下り小浜を攻め落としたのである。ここに早崎、小浜は島津方が占領し、早崎は家久が小浜は歳久が守った。

十余年にわたる戦乱は肝付方に大きな打撃を与え、天正2年には牛根城を明け渡し、島津は薩摩を平定し日向へと進出するのである。