造船所跡

残念ながら、江戸時代末期のこの造船所跡は残されているものがなく、ただ場所を示す案内板があるのみです。しかし、歴史的には重要な場所と思われます。
以下に、垂水市資料集八牛根編に書かれていることを記載します。

牛根麓脇田の海岸、現在はビワ畑になっている。ここは安政年間島津斉彬が西洋式の軍艦を建造したところである。(1854~1858) 名君といわれた斉彬が幕府の目を盗んで対岸の桜島の瀬戸部落とともに西洋式の軍艦を建造したところである。

周囲には高く莚(むしろ)を張り、領民の目を隠し、交通を禁じ他言を絶対に禁じたという。

斉彬は嘉永6年(1853)桜島の瀬戸に造船所を設けて大型船の建造に着手、翌安政元年に竣工昌平丸と命名された。更に十五隻の建造を計画して、その中の二隻、全長二十間(三十九.六十m)を牛根で安政元年七月(1854)着工した。

翌二年進水十一月に竣成して鳳瑞(ほうずい)丸・万年丸と命名されて薩摩の御用船となり薩摩の海軍が組織されるとそれに編入された。船尾に日の丸の船印を掲げた。これが日本国旗のもととなった。

当時このような大船建造は大仕事であり、色々と苦労が多かったことと察せられる。今も釘や鉄片を造った鍛冶場の跡から多数の鉄くずがでるという。

まさにこの地は日本の軍艦建造の先駆けを為した記念すべき所といってよいだろう。
(牛根麓脇田の方を日進と名付け、瀬戸部落の建造船には春日と命名した。大正三年桜島爆発で瀬戸は溶岩のためなくなっている。)

中央下の白い建物付近が入り江になっており、そこで造船が行われました。左の崖が前崎、桜島正面の溶岩左手が瀬戸です。今は完全に溶岩によって埋没してしまいました。
この写真は入船城の途中から撮ったものです。

また、第二次世界大戦では、ここの造船所で戦艦大和の一部分が作られたといわれています。