航空基地

松ヶ崎に航空基地!? 何を冗談を! とお思いになるかも知れません。海岸近くまで山の迫ったこの地に航空基地など作れるはずがない。・・・・

しかしあったのです。
下の写真を見てください。第二次世界大戦も末期になり、揖宿の航空基地がアメリカ軍に空爆を受け他に移さねばならないということになり、選ばれたのがこの地なのです。

もうお分かりと思いますが、フロートの付いた水上飛行機が5・6機ここに配置され、竹や木ぎれで覆われた格納庫に隠され、偵察や攻撃に出撃したということなのです。当時の基地は桜島基地と呼ばれていたため、アメリカ軍の偵察機は桜島付近にはよく飛来したということですが、まさかこんな所に基地を作っていたとは思いもよらなかったことでしょう。

写真手前の飛行機はプロペラが見えますが、向こう側は見えません。これから飛び立とうとするところの写真です。砂浜には牛根松が敷きつめられ、飛行機は回転する滑車のようなもので海から引き上げられたり、海へ出されたりしたそうです。

完全に隠された状態です。プロペラと、翼の一部が見えるだけで、空からは見つけられなかったようです。

上の写真は格納庫を組み立てているところです。竹の骨組みに木の枝を巻き付けていくという簡単なものだったようですが、当時の状況はこのように追いつめられたものだったのでしょうか。
なお、このような写真が残されているということが当時としては大変なことで、軍関係者のそれも責任者クラスの人でないと撮せなかったものではないかと思われます。

海辺の一角に監視所が設けられ、そこで常にアメリカの航空機の監視が行われたようです。
手前の畑は、芋畑だそうです。

このイラストは、戦後絵の上手な方が、当時の飛行機がどのようなものであったかを残すために描かれたものだそうです。
大きなフロート(浮き)を持ち、海上で離着陸できたのが特徴です。

ここは、空軍基地であって特攻基地ではなかったとのことです。しかし、ここに来ていた飛行機の数機は帰ってこなかったということです。偵察等が主要な任務だったようです。

現在辺田の何処に何があったのか、調査中ですが、それをもとに地図を作成し、当時の様子を残そうとしています。
現在各地にある基地跡には慰霊碑などが建立されていますが、それのないのはここだけであるということで慰霊碑の建立の計画が進められています。