平家と居世神社

平家は壇ノ浦の戦で滅亡したということになっていますが、実際は多くの者が船で日向灘を、一部は長崎廻りで南下し、九州各県の山間部や鹿児島の離島等に逃げ延びたといわれています。

今も各地に平家の落人集落があり、その研究については「落日後の平家」(永井彦熊著)、に詳しく述べられています。著者の永井彦熊という人は牛根の辺田の出身で、この牛根の地を舞台に演じられた歴史に関心を持ち、歴史を研究されてきた方です。

著書の中身は平家の都落ちに始まり、壇ノ浦の戦い後の足取りを実に細かに検証し、平家のその後の有様を描いたものです。特に南九州における平家のその後についての研究では貴重なものとなっています。

さて、松ヶ崎を特徴づけていることは、その地名に現れています。
下の図をご覧下さい。この地名から、明らかなように、古の京風の地名が残されています。

このような地名は鹿児島県では薩摩川内市にその一部の名称が残されているようですが、このように狭い町並みの中に統一的な呼び名の残されているところは他にありません。

いつ頃からこの様な呼び方がされるようになったかは定かではありませんが、ここは平家の落人が住んだ地と言われ、居世神社や入船城などは平家の落人と深い関わりを持つと言われています。

また、ここの人達の姓には平家に関係するものも多く、平家の子孫であるといわれる方もいらっしゃいます。(ここの辺田に在住の平野家では、残念ながら昭和2年の火事で家が全焼し、家に伝えられていたものすべてが消失したためにそれを物的に証明することは困難とのことです。)

また、各地の平家の落人部落に多い姓がここにもあり、長い年月にわたって受け継がれてきたことが分かります。

牛根麓に居世(こせ)神社という古い神社がありますが、旧記によると以下のような話が伝わっています。垂水市上巻から抜粋してみますと次のようです。

社殿旧記に曰く
上古(年代不詳)十二月二十九日大晦日の夜、居世神門の農夫(今は上世を以って氏とす。他に下世と称するもあり。是れ上世より別れしものならん)が、汐を汲まんとして汀に至りしに、空船(うつら船)一艘漂流して、船中に子供の泣声きこゆ、怪しみて、火を点じて見るに、七歳ばかりの童子船中にあり。

是れ即ち注1欽明天皇(第二十九代)の第一の皇子にましまして、雪中跣足にて踏み給ひし御挙動の余りに軽卒にして、大統を嗣ぎ給う可き、御気量にあらずとして、空船に乗せ流し奉りしものなり。

農夫は直に、我が家にと、 御供仕り、撫育し奉るに、十三歳にして薨し給いしを此所に奉祀すと。
(此説謂斉東野人の語なれと、旧記なるを以って今此所に記す)

当社の東、数町に皇子の御潜居の地と申す所あり、則ち居世神(こせ神地名)にして農夫居住の跡なりと言う。祭祀は春秋二回行われ二月の初卯九月九日なり

小烏神社   皇子荼毘所なり、石の小祠建つ。

御所の尾   居世神にあり、山の尾筋にして皇子遊覧ありし故に、名づけたりと言う。
(三国名勝図会、地理纂考、牛根村誌、神社旧記所載)

 以上が祭神に関しての最も古い記録であるが、比較的新しい神社に関する記録も、併せて記述して見る。

 居世神社
 文政七年(1824)五月藩へ申請の旧記録控え大隅郡牛根村之内(古文書)
 宗廟 居世大明神、地頭仮屋丑寅(北東)三丁程、牛根中、三社に書き出され候

 宝殿之内、神体木像、座像にして、高さ五寸八分程裏面に、【又和四季戊午八月吉日   宗翁元四神男】とある。

此の又和四季の年号は、皇紀にはないので、文和四年(1355)の文の字の誤りかとも考えられるが、文和とすれば、干支(えと)が合わない、永和ではなかろうか、永和なら干支が合っている、水和は西暦(1378年)で、南北朝時代長慶天皇の頃である。

又宝殿の中に、十一面観音鏡の懸け仏がある、是は、現在 久富木の家に保管されているが、背面の文字も明らかでない。

注1 上述の欽明天皇は在位が539年~571年でその御子も平家とは関係ないですが、この記録については後述のような矛盾が指摘されており、永井氏はこれが安徳天皇の事ではないかということを指摘しています。