開城後の治政

日南の城主伊藤義祐が一万数千の兵を率いて牛根城を救わんと志布志を発し大崎へ着いた時、入船城は和議なり開城との悲報を耳にした。義祐は地団駄踏んでくやしかったが遅かった。名目は対等でも人質は同等でも肝付方の降伏と同じであった。

備前についていた諸将は高山へ帰る者あり、土着する者あり、更に論功行賞は島津方より一方的に行なわれて士分を停止され平民に墜される者もあった。

牛根在住の入来・隈元・長浜・(平家系統)中野・二川・児王・村山の七戸が士分を停止されて二十年間、漸く伊集院の後に来た地頭鎌田寛栖の懇請によって藩の許しを得、牛根元村の地(今崩)居住を宥された。

高山富山の松崎も義弘について関ケ原の戦に従事した為、其の功により牛根辺田の川尻に居を宥された。
(牛根古文書長浜松崎系図)

占領後の島津方治政は安楽及肝付家に対する圧迫の一途であり、被征服者の当然受く可き報いであったかも知れない。牛根高野の山岳に住した津曲伊地知家の支族も同じである。刀をすてて部落名も高野と名づけて開墾を始めた。

高野の稲荷神社は島津に対する迎合の為に表面上は祀ったものでもあろうが、案外肝付伊地知の祖先を祀ってあるかも知れない。

 

伊集院魯笑斉久道の治政

島津義久は安楽備前守を二百石取りの一士民に降すと共に、部下の伊集院久道を占領後の地頭に命じて諸政を収拾した。

久道は先ず第一に島津家の守護神たる稲荷神社を麓部落八田の田の後方に創建し住民の帰依をすすめた。記録に、麓下河内に稲倉魂命を祀る。(神体絵像)天正二年甲戊菊月十三日建之と裏板にあり、更に入船城から荒神を遷して是と合祀した。

荒神は窯の神て住民の生活を司る神てある。更に肝付の将士の家柄所属などに拠って論功行賞が行なわれ其の存在も指定された。

広田は麓部落に(広田系図)。長山は辺田に在住を許された(長山系図)。然し伊集院久道は戦時下の治政は長くなく、程なく下伊集院石谷に転封を命ぜられ、後には鎌田寛栖が地頭として二川に来た。

久道が牛根三社の一に教えらる可く創建した稲荷神社は程なく廃れ今は只跡のみとなっている。

鎌田寛栖の治政

鎌田尾張守政年寛栖は天正八、九年の赴任らしく牛根占領後五、六年経過してからである。

此の地頭は相当な人物だったらしく、占領治下にも盲従せず、藩下にあってよく領民を統べた。久道の稲荷神社を建て、島津一色にせんとしたのに対して二川部落上之原に喜翁院(禅宗)を建立し自家の宗廟とし人民に仏教をすすめた。

入船城の戦に参加していた地元の七家長浜(麓)児玉、村山(中浜)入来、隈元、中野、二川の七戸が士分より落され停止しているのを痛んで藩奉行に陳情再三懇願し宥されたことである。

藩は宥したが是等七家を元村に集合せしめた。然し此所は元和六年(1620)に大洪水により津波鉄砲水の為押し流された為に七戸は牛根の各部落に散った(長浜系図)。

鎌田寛栖の治領は長かったらしく又庶民慕った為もあろうか、子の源右衛門是を継承して喜翁院は鎌田家の旦那寺として栄えた(三国名勝図会牛根喜翁院の図参照)。

鎌田寛栖
  鎌田政年人道寛栖 永正十一年(一五一四)生
  天正年中 牛根地頭 喜翁院を創建
  天正十一年(1583)末七月八日卒七〇歳
  怯石喜翁勝観庵主 墓は二川喜翁院

城主安楽備前守兼寛の急死

城主であり主君てある安楽備前守に対して、牛根城下の住民が肝付方を支援し運命を共にするのは当然であろう。

それを肝付方に加担したからとして論功行賞を振りかぎして圧迫を加えるのは、敗戦国民の受く可き必然の運命かも知れないが、ポツダム宣言に対等に和議を主張した日本に対し、敗戦国民として取扱った連合国の態度とも似通っている。一城の主人安楽備前守兼寛には対等とは言え、圧迫の魔の手が差しのべられた。

安楽兼寛
  法名清休庵虚士
  天正三年乙亥十二月十四日卒
  妻音山妙雲大姉
      天正九年発申五月二十九日

即ち和議が成立してより一年足らず位しか生きていない。此の急死に対しては何の記録もなく安楽文書にもないが、五十そこそこの若手の守将が病死ではないことは断言できる。それは垂水城主伊地知周防介重興や、根占重長の急死に拠ってでも想像がつくであろう。

 第九代伊地知美作守重興
  天正八年庚辰二月十二日 行年五十三歳
  祢寝右近重長
  大正八年三月十六日 行年四十五歳

それは島津の招宴で遊興中、沖小島の釣場に於て饗宴中五十三歳の身を以って突然に死し、称寝右近重長が一ケ月遅れて三月十六日島津に招宴されて鹿児島にて発病、高須浦に着いた時は息絶えていた。四十五歳の身である。

島津は相手の領主を毒殺する時は、必す毒杯を汲み交す味力の侍臣を一人犠牲にしたと言われている。そしてその子孫は重く取立てた因果を含めての殉職である。
斯くして島津方に楯ついた者は遅かれ早かれ消されて行った。備前守の妻は、それより六年長生きして天正九年発申五月二十九日に卒している。

墓は城下の堀の内に石のほこらに祀ってある。兄の河南安芸守は島津宗久に傷を負わせた元兇であったので、逸早く諸国巡遊に出たが、後帰り高隈の法恩寺に身を寄せていた。義久はその剣道の達者なるを賞し百石を以って召しかかえた。義久のえらい所はそこにある。

現在の入船城跡

頂上は本丸で広さ二へクタールばかり平になって居り、礎石も俗に言う金石の大なるものが残っている。更に抜け穴も本丸から直下にあるらしい、幾十回の桜島の降砂に埋れて不明である。立添山の方から掘って行ったら判明すると思うが、それも大変な仕事である。

大手門には石垣の跡が残って居り、近くには汲めどもつきぬ清らかな清水がこんこんと湧く。更に東の川内川の方より、溝を引き堀を廻らしていた。現在の地名堀之内、堀添はそれである。

更に大手門の路を御門の小路(すじ)と言い、射場の名称馬乗馬場の地名も残っている。

大隅島津の治政に入る

高山本城に攻めこんだ島津義久方は、伊集院幸侃の策を用い、兼続の妻お南を立て其阿を介添役とした。お南は島津忠良の娘、肝付氏征服の為結婚の政策として兼続に与え遂に義久の時其阿と謀って肝付家を亡した。

其阿茜嶽は、新納久友の三男、高山の道隆寺の住職をしたり、鹿児島浄光明寺の住職をして煮ても焼いても食えぬ径憎で、義久幸侃はうまく此の憎を利用した。故に論地の戦以外には是と言った大合戦はなかった。

然し父の兼続が志布志にて自害し、兄良兼が串良に於て暗殺されるを見た弟の兼亮は、たとえ義理の母とは言え怒り心頭に発し、舅父日南の伊東義祐と計って島津方と対戦せんと決した。

早くもそれと察したお南は、其阿と談合兼亮を放逐して弟の温順な兼護(兼道)を立てた。然し伴兼貞以来二十四代五百年連綿と続いた肝付の仁政に生きて来た住民は、一朝一夕に消ゆるものではない。あくまでも旧恩を懐い殊にお南が兼続の後妻に入って肝付家を潰したことを蛇蝎の如く憎んだ。

義久も、此の歴史ある肝付家を一挙に掃蕩することはたとえ叔母に当るお南に其阿が力に添えてあったとしても、此の因果関係には悩んだ。

然し兼亮が、安楽備前をして牛根城を守らしめ、乾坤一擲の一戦を挑まんとする態勢を察し、此機を逸してはと肝付の禍根を芥除することは、又とないと総力を挙げて討つことにきめたのであった。今其の部将の配置を見ても、島津一門が如何に全力を傾けたかが判明しよう。
  総帥 島 津 義 久
      左衛門尉歳久
      中務太輔家久
      島津図書守忠長
      島津右馬頭征久
      川上上野守信久
      新納武蔵守忠元
      子 新納 忠堯
      伊集院下野守久道(治?)
      八 木 昌 信
      上野長門守尚近
      椛山刑部大輔規久
      肝付弾正忠兼(島津方に加わったのは騙された為?)
      逆瀬川豊前兵衛
      久留半吾左衛門(城掘りに功あり)
      木村筑前(城掘りに功あり)
      喜入小四郎久総(喜入守四世忠俊三男)
      喜入摂津守秀久(義久家老)
      平田美濃守光宗(義久家老)
      平 田 左馬介
      木脇刑部左衛門
      図書介 忠 道(秀久の弟)横尾峠にて戦死
      小西四郎久続(横尾峠にて戦死)
      平田新右衛門(横尾峠にて戦死)
 
此の島津方の全力を傾注した攻城に対し肝付方は余りにも貧弱であった。然し一年有半此の劣勢で持ち支えたその勇戦は称すべきものがある。
今判明した氏名を古文書に拠って拾い出して見よう。

  肝 付 勢
      肝 付 兼 亮(不参加)
      岸 良 蔵 入
      河 南 安 芸(蔵人の弟)
      安楽備前守兼寛(蔵人の弟)
      安 楽 彦八郎
      伊地知周防介重興(垂水城主)
      伊地知美作守重矩(小浜城主)
      根占右近重長(中途より変節)
      高 野    (伊地知の一族)
  高山より参加の一族
      長山左衛門盛房(長山系図により牛根土着)
      山 形    (氏名不明)
      永井興右衛門(土着)実一
      安庭・安楽・松崎(串良富山より参加)萩原・津曲(高野土着)前田
  地元将士参加の人々
      広田(参加広田系図による)・長浜(二川の長浜と違う)・児玉・村山・中野・隈元・
      人来・二川・山口・山下・久冨木・西之原

土地の者は召されて輸送等に従事したらしいが不明。

長浜以下七家は、前述の如く肝付家加担の罪にて士分を停止され、二十年を経て牛根地頭鎌田寛栖の藩への懇請により宥され、一カ所に集合を命ぜられた。即ち観音崎の北東元村の地に居住、其後二十六年元和六年(1630)元村山津波の為に一部落全滅(三国名勝図会にあり)。

此の七戸各々各部落に転住せり。七戸とは長浜、児玉、村山、中野、隈元、人来、二川である。(長浜系図による)
難攻不落の入船城も和議により開城となったが、その後の出来事には考えさせられるものがあります。